ストーリーが特に何もない本がよくわからないと言われること
こんにちは。
前掲の試読小説が段々形になって来ています。
代わりに分量が増えているので、一息に読み切れるものでなくなりつつあります。
また、更新を重ねるうちに構成が変わり、話の流れに変化があるところもあれば、本の記述そのままのところもあるので、読んでいて混乱を招いたり読み飽きたりすると思います。ですよね。
なので消そうと思い始めたところです。
日常生活と異なり、小説は応答式ではありません。だから、書けば書くほど一方的になっていくことがあります。
本を読むうちに、良い感情もそうでない感情も抱かれることと思いますが、それが狙って表現されたものであれど誤解されたものであれども、読んだ人の心に、そのどちらかが雪だるま式に膨らむ可能性があります。できれば良い方向であって欲しいです。途中読んでいて辛くとも、最後にはそうであって欲しい。
そういえば。以前言われたことがあるのですが、私の本は全然話が進まないらしいです。
書き方の問題かなあと思うのですが、どうなんでしょう。
ざっくりと必要な場面を決めたあと、場面と場面の間を文章で繋いでいく書き方をしています。
今回の短編は、
「残業して会社からコンビニ寄って帰って来て副業してから寝て翌日休みで昼前に起きて駅の百貨店の上の階にある本屋に行って、本を手に取って元に戻す人と目が合って反らす」
これだけなのに、量がどんどん増えていきます。本を一人で書いていて文字数が多いのは良くないんですよ。書いている本を、知らない人が読んだらどう思うのか、って人に聞けないままブラッシュアップしていくと、引き返せなくなりますよね。
書く文章量もそう。多さにも個人差があるのですが、たくさんの人に読んでもらいたい文章量には適正な量があります。
そして、それよりもすこし少ない方が、読む側にも書く側にもいいと思います。
私は元々増えやすい方なので、厳しいですね。
私が今回書くことで挑戦してみたのは、第三者の主観の再現を広範囲に、活字で再現することでした。
記された活字を追うことで、読む人に他人の体感が再生されたらどうなるのかと思い書きました。
それは視覚だけに頼ったものではないので、できるだけ引いた状態で、でも主観は頼らないといけないから、色彩や音、心象を多く入れます。
書き出しているイメージとしては、心象や五感情報入りっぱなしの主体を展開して、もちろん都合の良い色彩とか質感しか書けないのですが、できるだけ広角で時間もあまり区切らないで展開している感じです。
伝えるのが難しいな。
カメラもカットもある程度決めることはあるけど基本主観なので、印象深い光景や体験があれば読む人が記憶するとか写真撮るとか歌や句にしてくれたらいいなあと思って。
文字情報で現実っぽい世界が現実ではないのに読む人に再現されるのはかなり面白いと思うんです。幻想寄りになるのかな。
ただ、このままだと、このあとストーリー性の強い長編に繋げるのは無理かな、と思っています。
そうそう、現実の再現と言えば、昨年からVRとか、あと数日で振動再現とデバイスが出て、なんかどんどん実在しなくてもよくなってますけれども、私はその体験が事実と認めるならばそれでいいのではと思います。
ソフトウェアやハードウエアでもある私たちも、そう思いながら生きていることもあるし、それはそれとして、私は見えない繋がりを信じているタイプです。根拠があるなしではなく、そうであればこそ持てる意志や行動があって、私は本を書いています。
デジタルやアナログのことを書いていて思うのですが、デジタル媒体は表現の階調がまだ足りなかったり不器用であるだけで、昔から残されている人が作ったたくさんの、残されたものの痕跡をみると、世界全体はずっと、そのときにできる技術を使って、なにかを作っていますよね。
いま私が書くこの文章もデジタルデータですね。
唐突に、プリントアウトして読むのが好きだな、と思いました。
ああ、手書きもいいなあ。