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sanaritxt’s blog

思考をぽつぽつ置いておくところです。

試し読み 小説 『2oH-2o39』 一章 「消えゆく街角の喫茶店へと」 (部分1/3とすこし) 内容修正9/8

2016年最初の頒布が、文学フリーマーケット大阪になります。

東京でも本書を出す予定でおります。

一章 消えゆく街角の喫茶店へと

 

本文

 

*1

 

今のところ2016年の文学フリーマーケット大阪と、東京での販売を予定しています。

完成してたらちゃんと頒布できると思うので、是非ブースに遊びにきてくださいね。

*1:東京での再版にあたり修正したため、本文を削除しました。お読みいただきありがとうございました。

文字や文章についての雑感20160725

まだ小さな頃、周囲にあるいろいろなものの彩りを強く感じるような夏に、好奇心から山へ分け入って迷子になったことがある。最初は獣道なのか雨水の通り道なのかわからない道を進んでいたのだけれど、途中にある倒木を乗り越えた先の細いみちのようなものを進み、自身の腰ほどの高さまで伸びた雑草を踏み分けて分けて行きふっと疲れて、振り返ると道がなくなっていた。

少し戻ってみたのだけれど、足場が悪くて何度も転びそうになった。一歩、一歩と踏みしめることができる場所を選びながら戻っていたはずだけれど、なかなか道が現れない。

 

そうして疲れきった頃に、うろたえることの不利を感じて腰かけた丸くて一抱えもある大きさの石に、思いもかけず文字のような窪みが刻まれていた。

見回すと同じような大きさの石があちらこちらに埋もれていて、苔に覆われて正体のわからないものもあったけれど、地蔵の形が浮かぶもの、それから、漢字らしきもの、それはかつてここに人がいた痕跡と思われて、わたしの心を落ち着かせてくれた。

 

このようにして、私は文字や文章を好きになる。それは、人の生きたことを伝えて、残して、示すものである。それは、それを記した者が朽ち消えた後も残ることがある。そしてそれに思いを馳せるひと、読み取ろうとする人がいる限りは、軌跡としてあり続ける。それは錯誤でもある。不思議なことだと思う。

 

私は手紙を貰うのが好きだ。あるいは、手紙ほどでなくてもよい。走り書きでもよい。
手書きの文字が記された「もの」は、そこに意識を持った存在が「いる」ような気がして、それを失うことをためらわせる。
 
先ほど、古い財布を処分しようとして中を開けて見たら、レシートの裏に走り書きが残されていた。
 
きゅうり 3本入り やすいやつ
 (キューカンヴァー!!)
  牛乳いつもの 2 
 
なつかしい。
その時その人は買い物で特に必要なものを、その場にあるレシートに走り書きして、私に渡した。私はそれを受け取って、財布に入れて部屋を出た。それだけだった。その文字をいまさら見つけた。私の目の前に、その人と過ごしたかつての時間と空間が現れた。
 
その光景は色褪せていない。描いたばかりの水彩画のように瑞々しく、はっきりとはせずに、ものの輪郭はぼんやりと滲んでいる。かつて共に過ごした記憶の中の人は、決まって笑顔でいて、少し俯いて佇んでいる。5年前。光る夕暮れ。風鈴の影がレースのカーテンに揺れた。
 
レシート裏の走り書きには、過去が保存されている。
記す側にとって、伝えるという目的は既に達せられている。5年後に向けて記されたものではない。用は足りている。
読む側は、書き記す側よりも常に未来から過去を追う。記されてから時を経るにつれて、同じ文章を読む度にまた新しい喜びや悲しみ、何らかの気付きがある。
文字の踊りと癖、行間、インクのかすれ。
時間が経つことは離れていくことでもあるのに、残された文章からすこし、少しと、あれも、これもと、読み取れることが多くなっていく。
冷えたきゅうりをかじる音、蒸す梅雨時に風鈴を買ってきたこと。夏休みになると人がいなくなる駅ビルの地下のパン屋さんのレシート。レジ脇の冷蔵コーナーで震えていた、聞いたこともない高原生まれのオリジナル牛乳パックの白さ。250ml。
 
自分自身が当事者であるときに、幸せな状況であればあるほど、その時が幸せであるのかどうかを、冷静に判断することは難しい。
それが、過去になったと知る時に、ようやく幸せだったかどうかを判断することができるようになる。
後になってわかるこのことを、悲しいことだと言う人もいる。そう、私もかつてはそう思っていたかも知れない。現在は常に過去になって、取り戻すことができないことばかりが増えていく。あの日も、あの人も、自分自身ですらも遠くなる。このことを受け入れた今であっても、つらいことが多いと感じる。
 
文字を記すことは、時間を閉じ込めることだ。そこには、それを記した人も同じく閉じ込められている。読む側は、記された後になってからその存在を知るのに、記した側はずっと、その時のままでいる。
 
手書きの文字は生々しく目の前にある。この生々しさから受ける、かつてあった生への違和感もあって、手書きの文字が記されたものは、なかなか捨てることができない。ただのメモであってすらそうだ。
 
そう思いながら、レシートを丸めて捨てて、くたびれた財布も捨てて、今これを書いている。